2013年1月31日木曜日

サバティカル日記 19 エッサウィラ

 エッサウィラで二日半過ごす。

 多くの町がそうだが、この町は特に観光地とそうでない場所にハッキリと分かれている。ホテルの主人は地図を指さし、この地区は夜になると貧民区で危険だから行くな、という。観光区域には売らんかなの態度の人たちがウヨウヨいるが、区域を外れると、いなくなり、顔付きも変わる。着ている服もまったく違う。エッサウィラにも城壁で囲まれた旧市街、メディナがある。その旧市街地には外側、内側ともにいくつものゲートがあって、さまざまに隔てられている。外と内が違うのは当然として、内側でもゲートを潜る度に大きく雰囲気が変わってしまう。完全に城壁の外側に出てしまえば一変し、内側の華やかさはまるでなくなり、生活臭さが漂い、ちょっと殺伐とした感覚になる。しかし、その内側はなんとも薄っぺらな世界だ。そしてフランス人がたくさんいる。

 観光地はなにかがあるから観光地になった。風景や歴史遺産や食事やら、際だった特徴がその場所を観光地化させる。そもそも人が集まって来やすい場所、あるいは集まった場所だったから、流通はお手のものという場所柄ではある。しかし観光客の振る舞いと賃金格差が、ここに住む人たちの一部をどんどん嫌な人たちにしていくのだろう。成り上がってやろうと思う者、あいつら良い思いしやがって、と思いながら観光客を見る者。なんとかして、持っている金を巻き上げてやろうと思う者。そして中には真摯に人間対人間の付き合いができる者がいる。

 この前、ツイッター上でイスラム社会の男性優位についてほんの少しだけ触れたら反論してきた人がいた。あらた真生もイスラムの女性たちが黒服の下でどれだけおしゃれをしているか、知っていますか?と書いてきた。それでさらにその人のツイートを見ると、私のことを「たまに海外に出ると知ったかぶりになる、まるで有閑マダムみたいだ」とまで書いている。なるほど。これが人なのだなあ、と面白かった。自分が知っている範囲を絶対的なものだと思い込む。海外に出て、世界を知っているように思ってしまうが、ある範囲を脱していないからその世界が絶対基準になる。
  旅をしても、海外に出てもこれではまったく意味がない。日本人はすべてをフラットに見る習慣がない。範囲が狭い。だから海外のプロパーと言ってもはっきりとアメリカ専門家、中国専門家……等々に分かれていく。

 日本について考えてみたい。日本は完全に建前は男女平等である。しかし、それでも男性優位社会であることは揺るがない。日本人の女性たちは服装の制限はないから女性たちは皆、おしゃれかどうか? 男性優位が謳われている宗教の元で、どれだけそんなに男の尻に敷かれてなんかいないと言っても、精神的な面では男は女に組み敷かれるものだし(どの国でも同じだ)、外面はやはり圧倒的に男性優位である。態度にも強く表れる。男たちは傍若無人な人が多く、しばらくぶりで、二日に一度の割合でつかみ合いの喧嘩をしている男たちを見たが、ここは肉体優位社会でもある。子供たちでも3組は殴り合いの喧嘩を見た。無様な姿を晒しているのは物乞いでもない限り、みんな男だ。肉体の優位はともかく精神面のひ弱さが浮かび上がりもする。イスラム社会に於いて、戒律に対し抵抗しておしゃれをする人も、美意識からおしゃれを求める人もいるだろう。しかし、戒律に縛られた社会では、そう思ってもできない人、したいとも思わない人たちの方がずっと多いのが現状なのではないか? 女性たちの服装の下を覗き見ているわけじゃないから分からない。けれど、日本の状況を思えば、人によって大きく違うし、かつ戒律面での縛りは大きいはずだ。かつ、イスラムならば国によっても大きく基準が変わるし、シーア派とスンニー派ではずいぶん違う。

 ここは芸術家の街であり、グナワ音楽の発祥の地でもあるという。確かに音楽はそこかしこから聞こえるし、ライブを謳っているレストランが多い。ギャラリーもそれなりにある。けれど、僕が入ったひとつのレストランでの演奏は酷かったなあ。もうひとつのレストランの演奏は素晴らしかったんだが……。ある楽器店の店主の顔付きが良かったので話をする。やはりエッサウィラはどんどん悪くなってきたと言う。そこにスコットランド人の絵描きも加わって、いかにダメになってきたかを語っていた。観光客が集った時に、どういう方向性を生み出そうとするのか、そこに文化力が背景となるのだろう。メクネスのような高い文化性や人間の誇りを感じさせる街もあるのである。同じ国にもかかわらず、だ。
  もともとフランスの植民地だったので、フランス語が通じるというメリットがフランス人たちにはあってフランス人が集ってくる。フランスに比べれば物価は遙かに安い。エッサウィラは気候も穏やかで寒暖の差もさほど大きくないそうだ。そして海辺だから気分は良い。
  ただ長居は無用だ。

 ということで、昨夜遅く、エッサウィラからマラケシュ、カサブランカを経て、ダカール入りした。
  今は朝11時だ。寝たのが3時だったからな。今日でちょうど一ヶ月が経過する。さて、今日はどんな日か。まだダカールの街をまったく見ていない。


2013年1月28日月曜日

サバティカル日記18 メクネス

 このホテルの部屋はすべて石でできている。まるで穴蔵だ。その穴蔵の居心地の良さにスポリと嵌って、ベッドから出たくなくなる。暖房器具が付いているから寒くはないが、なんとも居心地が良い。
  朝、雨。ざんざんぶり。ヴォリビリスの遺跡に行こうかと思っていたが、雨なので、即予定変更。メクネスでダラダラすることにする。
  昼近くまでは部屋にいて、ゆらゆらと外に出る。オッと、晴れ上がったじゃないか。快晴とまでは行かないが、歩くには気分が良いと思いながら、タクシーで駅に行き、明日のエッサウィラ行きの切符を買う。タクシーの運転手も駅の切符売りのお姉さんも、みんなまったく棘がなく、やけに微笑みが美しく、親切だ。これはどうしたことだ、とやはり不思議な気分。ここも観光地なのだ。
  モロッコではメルズーガのような砂漠地帯を別にすれば(とは言え、砂漠の真ん中で、ノマドを助けてと言われての商談には参ったが)、どこへ行ってもノイジーだったからこの静寂さは不思議。
  カフェでダラダラと過ごす。カフェもまた、他ではこんな風に気持ちよく空気が通り抜けていくような感触のあるカフェはなかった。メディナに戻って歩くがやかましい客引きはまったくいない。たまに呼びかけられて話をしても、顔がいやらしくないから良い。マラケシュやフェズはどうしたらこんな顔になるのと思えるようないかにも駄目の典型であるかのごとき顔をした人間だらけだったから、この穏やかな顔の人たちに不思議な幻惑感を覚える。道を聞いてもわざわざ案内してくれようとする。チップは受け取らない。路上の物売りの人たちでさえ、地図をみんなで見ながら、あっちだこっちだとやっている。もちろん言葉は通じないが、通じないなりに真剣なのだ。親切過ぎて、ちょっとうっとうしくもなるがそれは贅沢というものだ。オレは君たちの親戚の叔父さんでもなんでもないんだよ、オレはあなたがたの友だちの輪に加わったことは一度もないはずなんだけどな……ってな感じ。そっちこっちで「ニーハオ」と呼びかけられる。フェズでは日本人だったのが、ここでは中国人になっている。日本人だよ、と言うと、いやお前の顔は中国人だという。フウン?

 この文化に触れるのが面白い。フェズとメクネスでは距離にして50キロしか離れていない。たったの50キロ。でもまるで違う文化を持つ。フェズの喧噪感がゼロ。人と人との距離感もまったく違う。どうしてなのか?誰に聞いても答えてはくれない。フェズは大都市だから、という人。でも大都市というのは理由にはなるまい。確かにメクネスは大きくはない。でもシャウエンのようなさらに小さな町の客引きでさえやかましかったし、マリワナ売りが何人もいた。おんぼろバスでさえ、荷物代として20ディルハムを要求してきた。これは異様に高い値段だ。10メートルだけ案内して20ディルハムを要求したアホな案内人もいた。逆にもらえるわけないだろ!少しは考えろよ、バカと日本語で言っておいた。せいぜい5ディルハムだ。そして1ディルハムをくすねる連中がそこかしこにいるのである。マラケシュでは、まず人の言うことを信用してはいけなかった。金が絡めば別だ。でも金が絡まないと、みんなツンケンして振り向きもしない。
  ところがメクネス。古都メクネス、という言い方をする人もいるが、フェズはさらに古都である。京都と奈良のようなもの、という言い方も見かけるが、人間性で言えば、まるっきり違うのである。

 街をぶらぶらと歩く。スークに行って、動物たちの首だらけの肉屋の前を通る。牛も羊もみんなさらし首だ。ここでは鶏はその場で絞め殺し、肉を売っている。内臓がその辺に散らばっている。内臓もモロッコではすべて平らげるという。すべてを活かすのは特別ではないが、強く動物の肉とともに生きてきたことを実感せざるを得ない。
  山と積まれた香辛料売り場とピクルス売り場、モロカン菓子売り場を通り抜け、再びプラザという広場に出る。と、そこかしこでベルベル音楽が演奏されている。ベルベル人たちの音楽。明日向かうエッサウィラはグナワという音楽の中心地だというから、楽しみ。グナワ音楽もまた、聞けば本当に面白い。もちろんアラブマグレブ音楽も面白い。アラブ歌謡も楽しい。こういうベルベル系音楽、グナワ音楽、アラブマグレブ音楽、アラブ歌謡……これらが混沌となって常に鳴り響いている。


 どれもこれもが、幻惑装置としての音楽のように聞こえてならない。そもそも音楽には幻惑剤の要素はあるのだが。
  夜、電球の光に照らされた人々の顔がなんとも素敵に見える。街を一周してみる。古都だと改めて思う。戦渦に耐え、時間を育んできた街だが、やはり人々は生きている。遠くから城壁を眺めると、美しく生きた方が、やっぱり得なんじゃないかと思える。水売りがいた。赤い服を着て、イノシシの首だろうか?その皮の中に水を入れて鐘を鳴らしながら売り歩くのである。これはなにかの映画で見たなあと思い、危険性も省みず、即、水を飲んだ。決して美味くはないが、にたっと水売りの叔父さんにされて、こちらもにたっとしたらもう一杯飲めとごちそうしてくれた。うまくないし、危険だが、しょうがない、一気に飲む。さらに一杯くれようとするので、制止。でも、このオッサンの顔が良かった。なんの悪意も敵意もなく、いい顔だった。
  未だ、問題は起きていないから大丈夫だろう。明日はエッサウィラ。

2013年1月26日土曜日

サバティカル日記17 シャウエン⇒メクネス


青いシャウエンをあとにして、メクネスへの旅。

朝から土砂降りの雨。とにかく寒い。暖房はもちろんない。
 乗ったバスが、地元の人たち用のバスだった。国営のバスと値段はほぼ変わらないのに、なんでこんなにボロいの?というくらいのおんぼろバス。出発前にはエンジン部分を直している。叩いたり、蹴飛ばしたり、吹かしたりしながら、やたらと胡散臭い顔した連中がみんなで笑っては、頬をくっつけあっている。もちろんみんな男。

走り出すと、妙な音がする。大丈夫なのかな、このバス? と思いながら乗っている。ギシギシ軋むのはもちろん、やたらとガスくさい。シートは垢がこびり付いているかのようにテカテカ光り、そこかしこが破れて中身がはみ出している。シートが倒れたまま戻らない座席やガムのようなモノが挟まっている座席が目に付く。そこかしこから雨漏りがしている。水滴をよけなければならない。よけないとさらに冷えてしまう。それに窓が完全に閉まらないから風が吹き込んでくる。寒さはピークだ。足の指の感覚がなくなってきて、ラジオから流れる幻惑音楽の中、眠さが増してくる。

男たちは、垢のこびり付いた服を着て、なにが珍しいのかオレの顔をじろじろ見る。そしていろいろと話しかけてくるがさっぱりなにを言っているかはわからない。わからないが、なんとなく親しみを持ってくれているようだ。子供たちがなんでこんなに多いのか?というくらい多い。だからやかましい。まるでガキどもの叫び声で作られた合唱団のバスのよう。

途中で乗り換える必要があるのだが、言葉が通じないから、場所だけを連呼する。シディカセム、シディカセム!!チェンジ、チェンジ? シャウエンからシディカセムまで3時間と言われていたが、実に4時間30分掛かって着く。途中20分休憩と言っていたようだが、45分も休憩。車掌は知っている限りの英語で対応してくれようとはしてくれる。でも20ミニッツ。ヒア。くらいのものだ。車掌と言っても見ようによっては浮浪者と変わらない。はっは。笑い顔がなかなか良いじゃないか。シディカセムでは隣の男がニタニタ笑って、ここだと指を立てている。追い立てられるようにバスを変える。メクネス、メクネスと連呼。するとすべてはジェスチャーで動く。なんか言っているが、分からないから適当に乗る。で、バス内で再び皆に、メクネス、メクネスと連呼。肯く人々。

どうやらメクネスに近づいてきたようだ。再び、メクネス?と聞くと、そうだと肯く。すかさずメディナ、メディナ!と声に出せば、黙って座ってろ、という仕草。そしてにたっと笑う。オレもにたっと笑う。山谷にでもいるような気分になっている。と、岡林信康の歌が口に出る。
 岡林の歌は単純だなあと思う。なんでこれが受けたのだろう。ディランに影響を受けた拓郎にしても、やはりディランは遠いと思わざるを得ない。モロッコの歌は良い。時間が消えていく感覚。でかい音でバスの運転手がラジオを流している。ラジオの音楽が人々をときどき黙らせる。音楽がまだここでは生きている。老若男女が同じ歌に酔えるのである。もうこんな時代は日本では遠くなった。

 メクネスに着いた。ここからが驚きの連続だった。タクシーはどこだというと親切に案内してくれる。タクシーに乗れば、この住所は分からないと言って降ろされる。分かっているタクシーを捕まえようとするが、みんな分からないと言う。これがモロッコの他の都市ならば適当に乗せられ、なんとなく適当なところで降ろされてしまう。ならば、ということでとにかくメディナ、プラザ、センターに行ってくれと頼む。でなければ、誰も知らないからと言って、乗せてくれない。タクシーの運転手に20ディルハムでどうだ?と聞くと、10で良いと言う。ええ??この距離なら10ディルハムで良いというのだ。他ではまずあり得ない。

プラザに着く。すると音楽隊の演奏があった。これがまた素晴らしい。幻惑感で一杯。ラッパのような音がいくつもいくつも繰り出される。ああ、トルコの音楽のようだと思いつつ、10キロのバッグを担いだまま、聴き惚れる。我に返って、このホテルに行きたいのだけど、と警官に聞けば、フランス語はできないのか?と言って二人の警官が途方に暮れている。すると誰かが近づいてきて、英語で指を指し、向こうへ行ってから誰かに聞けというではないか。その指示に従い、プラザの逆の端に来て聞くと、ここなら知っているから案内するという若者がいた。迷うのは嫌だから案内してもらう。案内されたあと、5ディルハム硬貨を渡そうとするといらないと言う。ウウム。これまたあり得なかったことだ。みんなモロッコでは1ディルハムをごまかそうとするのだから。

 チェックイン。ここの受付の、案内嬢が、モロッコの他の地域では見たことのないようなキュートさ。ちょっと怖そうな女性が多かったが、この子のキュートさには唸った。そして部屋に入ると、驚きだった。素晴らしい!マラケシュ、ワルザザード、メルズーガ、フェズ、シャウエンと回って、こんな素敵なところには泊まれなかった。けれど、二番目に安い。一泊3000円くらいしかしないのである。唸った。

 とまあ、とにかくメクネス。驚きのメクネス。即刻、一泊だけではなく、もう一泊したいのだけど、と頼む。
  ウウム。やっぱり人だ。人ほど嫌な、そして素敵な生き物はない。と思う。

2013年1月25日金曜日

サバティカル日記16 シャウエン



  行くところ行くところでシェフシャウエンという場所を勧められるので、来てみた。確かに静かで素敵ではある。青と白のペンキがメディナ中に塗られていてメルヘン的と言われるのも分からなくはない。でもメキシコの方が遙かに、それを言ったらメルヘン的だよなと思う。メキシコには色彩の眩暈がある。
   今泊まっているところはスコットランド人が経営しているB&Bだが、安くて良いけれど、いかんせん暖房がなく、寒くてベッドから出られない。ホテルでも三つ星クラスだと暖房がないところが多いのだとか。ここは三つ星どころか一つ星か?

  昨日はスッキリと晴れていた。シャウエンのメディナ内にまで徒歩で出て、飯を食ってしばらくすると暗くなってきたので帰ろうと思い歩き出す。が、どこを歩いているのか分からなくなり、15分で戻れるはずのところを山道を歩きつつ1時間掛かって、やっと辿り着いた、と思った。けれど、そこからどこにいるのか分からなくなり、たまたま歩いている人に聞こうとするが、分からない言葉で話しかけられ怖くなったのか、振り向いてもくれない。結局、近場でうろうろうろうろ、30分近く掛かって見覚えのある建物に近づくことができた。
  ここは青と白の幻惑がメディナ内にあり、グルグル回って、出られず、次に近くに戻ってからは茶系の色がずっと続くのでどこか分からない。色彩が同じだと幻惑感が増す。それは他のモロッコのどこでも一緒。特に砂漠地帯に行くと、完全にカスバ色で、土色しかないようなところに四角い土の建物が並んでいるから、さらに分からなくなる。

  今日は雨。
  寒くて雨が降っていると部屋に籠もったままどこにも出たくなくなるが、近くに飯を食うところがない。バスのチケットも購入する必要があって外に出た。傘を買おうと思ったがどこにも売っていない。バスターミナルまではいくらでもタクシーが走っているから捕まえればいいと言われて出たが、タクシーは一台も通らず。結局、雨の中を濡れ鼠で30分掛かってバスターミナルに辿り着く。ダウンジャケットが濡れてペラペラになり、それでもまだ傘は手に入らず。

  明日のメクネス行きのバスの時刻を聞き、チケットを買った後、雨の中を再び歩くのが嫌になって隣りのカフェに行く。と、薄暗い中に店主がポツリと立っている。営業中?と聞けば、にたりと笑ってなにかぼそぼそと言う。どこのカフェも同じで、クソ寒いのに扉を開け放ち、暖房なんて当然のようにあるわけもなく、電気も点けず、客は皆ジュラバを着てネズミ男のように目を光らせる。

  最初は歩いた後の熱もあり、異常なほどたっぷりと砂糖が仕込まれたお茶が美味しく感じたけれど、次第にダウンジャケットに浸みた雨が下着にまで達し、冷えてくる。これはマズイと歩き出そうとするが、雨は一向に止む気配なく、なんとかタクシーを捕まえてメディナに。メディナには傘があると聞いたからだ。メディナまで来ないと傘さえ手に入らないとは驚きだが、なんとかこうして傘を手に入れた。傘を求めて濡れ鼠になり、カフェに寄り……。傘がなぜ必要かと言えば、明日のホテルからバスターミナルまで、荷物を持って再び濡れては歩けないと思い込んだ。タクシーが捕まるとは限らない。

  寒くていられないから、再びカフェに入った。。このカフェは中心地にあるカフェで、客も大勢入り(だが女性客はひとりもいない)、男たちはみんな、テレビでサッカーを見ているから少しは外より暖かい。それでも扉は開け放たれたままだ。モロッコでは、カフェは男たちが皆でテレビを見る場でもある。夕方になるとぞろぞろと映画を観るためにジュラバ男たちが集まり出す。ベルズーガのあるレストランに入っていると、テレビが映らなくなってしまった。途端に男たちは皆出ていって、別のカフェで映画を観だした。まるで力道山を見ていた日本人と変わらない。ひとりも女性はいない。思えば店主もみんな男だった。

  傘を差して街を歩いてみる。石畳が滑り、足が取られて水たまりにドボンと浸かる。歩いているときは良いが、止まると冷えてくる。が、山が煙って温泉地に来ているような気分になって何となく気分良く街を歩き続ける。雨が景色を失わせるとは限らない。雨は晴天時とはまったく別個の表情で微笑むが、一方、僕の手はかじかみ、足の指はどんどん冷えてくる。

  それでも歩く。見る。匂いを嗅ぐ。耳を澄ます。

  モロッコの音楽が染みてくる。再びカフェに入り、寒さに震えながら、音楽と雨の音を聞き、幻惑の青い街を見ている。

2013年1月23日水曜日

サバティカル日記15 フェズ

世界一の迷宮都市と言われるフェズ。千二百年も昔にできた街がそのまま残されているのである。

 フェズに昨夜入り、今日はその迷宮を歩いてみた。ホントに細い路地がたくさん張り巡らされていて、混沌とするが、それよりもフェズの連中はなんで女も男もみんなペッペと路上にツバを吐くんだろう、とそれが気になって仕方がなかった。カフェに入れば、誰もいなくなってしまって金を払いたくても払えない状態に追いやられる。昨日のバスの中でもそうだったが、とにかく男同士、よく喋る。昨日のバスの中なんて、バスの運転手ふたりの会話が5時間途切れず。途中でもうひとりの運転手を乗せ、計3人でのバカ笑いと大声での会話が4時間。最後の一時間はひとりになったけれど、そのひとりはひとりになった途端に携帯電話を手放さず、一時間の間に10本くらい電話掛けをしていた。ところがこれがホントに危険。バスがフラフラフラフラと移動していく。男同士のこの会話好きにはいったいどんなメンタリティが働いたらこうなるの?と思うくらい妙なほどでかい声で延々と喋る。路上でも男同士、喋りすぎるくらい喋っている。

 かと思うと自称ガイドが寄ってきてやかましくて仕方がない。この蠅のように付きまとってくる連中ばかりか、写真を撮ってもいないのに、写真撮ったろ、見せろとしつこく言ってくる男もいる。金くれ、金くれ、と路上で手を差し出す人の数も数知れず。かと思うと、二十歳前くらいの女の子が売春しようとするのも勘弁してよ、だ。200DH、だいたい二千円強でどうだと言われてもゲッソリしかしない。子供には気をつけなければいけない。子供だと思って油断すると、ぞろぞろと付いてきて、あっちはクローズだ、あっちにカラウィンモスクだ、と案内しようとするが、「ラ・シューカラン」(No, Thank you)と言って追い払わないと、マネーマネーとどこまでも付いてくる。金をせびる子供は世界中、結構いるが、ここまであからさまに金をせびる子供たちはモロッコではじめて出会った。その狭いメディナの通路を馬が通り、ロバが通る。人間はギリギリ、壁に貼り付いて避けなければならない。
  そうか、これが昔から僕が憧れた迷宮都市なのかと思って、ホントにガッカリした。世界に名だたるフェズの街だが、人間の欲望もまた、その歴史とともに残り、発展させてきたのだろう。

 フェズに一番長くいるつもりで来たのだが、すぐに立ち去ることにする。明日はシャウエンに入る。

2013年1月22日火曜日

サバティカル日記14 メルズーガ~フェズ

 昨夜、途中まで書いてそのまま寝てしまった。

 パートナーの駱駝はジミーヘンドリックスと名乗った。そう言えば駱駝の顔をよく見るとジミヘンに似ている。駱駝という種がジミヘン的な顔をしている。

 ジミヘンとノマドの男、ユーゼフ、彼らとともに砂漠に入っていった。ノマド、サハラのことをいろいろとユーゼフは英語で話した。この向こう側にブラックサハラが広がり、そこに自分のファミリーがいる。母親ひとりに男兄弟が8人。父親を入れると全部で男が9人。姉妹はいない……。ノマドがシャワーを浴びる(こう言った)ことはほとんどない。せいぜい2カ月に一回、からだを洗えるかどうかだ。でもこんな寒いときはとてもからだを洗う気持ちはおきないよ、と笑う。30代半ばの男なのだが、一番下の弟は1歳だという。
  ノマドだからブラックサハラを転々としている。俺はまったく学校には行っていない。行けるわけがないんだ。学校なんてないんだからな。俺はジミヘンと一緒に言葉を学んだよ。今ではベルベル語、アラビア語、英語、フランス語、スペイン語、少しだけイタリア語を話せる……。そしてたくさんのジミヘン自慢をした。ジミヘンを知っているか?名前だけね。聞いたことはないけど、凄いんだろ?

 モロッコのサハラは横70キロ、縦25キロ。そして指さしながらあの山の向こうがアルジェリアだ、と。ここはもうアルジェリアとの国境地帯である。砂漠と聞いて多くの人たちが想像するのはサハラだ。世界にはたくさんの砂漠があるが、草一本生えていない細かな赤茶色の砂漠は、ここサハラのものだ。僕もいろいろな砂漠に行ったが、やはりサハラこそが砂漠らしい砂漠である。けれど、ブラックサハラのように砂のないサハラもある。

 サハラは、北アフリカ一帯に広がり、さらに広がりつつある。エジプト、リビア、アルジェリア、モロッコ、マリ……。地球温暖化はもちろん、森林伐採が大きな影響を与えて広がっているわけだが、一方ではそれを観光に用いようともするわけだし、私のように足を運んで駱駝に乗ったりもするのだ。あと千年後、どこまで砂漠は広がるのだろう。

 砂漠は想像以上に美しく、凄かった。それだけに怖さがある。さらさらの砂は足を掬い取り、どこにでも入り込んでくる。防塵防滴のカメラを持ってきたから良かったが、そうでなければ壊れている可能性も高い。少しでも高いところに登ると風が大変な勢いで吹いている。何度も転げ落ちそうになっては、踏ん張ってさらに上に登ろうと試みた。けれど、ずるずると砂に足を取られる。砂地獄とはこういう砂のことを言うのだろうと思った。
  砂漠の美しさは恐怖と裏表である。瞬く間にその表情を一変させる。昼間は熱くなっている砂だが、日が落ちるやいなや異様なほどの冷たい氷へと変わる。砂は気管にも入れば、身体中のあらゆる凹部に入り込んでくる。服を着ていてさえ入り込む。砂以外になにも見えないところまで来ると、これはひとりになったらもの凄い恐怖を感じるのだろうとヒシヒシと思う。
  だがノマドたちは夜、砂漠地帯を歩くのは平気だという。ユーゼフは昨夜も砂嵐の中、朝の三時まで歩き、3時間寝た、と言っていた。「月の砂漠」の歌は嘘だと思っていたが、そうでないことが分かった。

 アトラス山脈の天候悪化ゆえにナイトバスが出ない、昼間に変更になったとのことで、翌21日朝、メルズーガを後にし、フェズへ。10時間のバスの旅。しかし、途中トイレ休憩が一回しかない。バスの中にトイレはない。でもモロッコ人たちは皆、平気なよう。凄い膀胱持ちが揃っている。

2013年1月20日日曜日

サバティカル日記13 メルズーガ

  1月18日午後1時発のバスが3時間半遅れで出発し、夜中の23時半にメルズーガ着。マラケシュの混沌からワルザザードのだだっ広い混沌があって、メルズーガは星々の輝きで迎えられた。人は全然いない。
 1月19日、ダラダラと過ごす。午前中よく晴れ上がり、ホテルのテラスに出ると目の前に砂漠。そのまま砂漠へ行こうと思ったが、疲れが出ていたので、近くを歩くだけにする。そして午後から砂漠への旅を行おうと計画していた。

 午後になってみると天候は一変、砂嵐になり、何にも見えなくなってしまった。砂の中をそれでも歩きに歩いてみるが、凄まじい砂の威力に押され、まるで西部劇の閑散とした街のような通りを砂に紛れて歩き、寂しげなカフェに入って過ごし、また再び砂の中に出ていく。砂の中に突然、現れたのが、ベルベル人たちの墓。砂漠地帯の麓にその墓はあり、墓はちゃんと街を向いている。それを夢中でカメラに収めるが、もはや目を開けていられないほどになり、そのうち呼吸すら苦しくなってくるありさま。なるほど砂漠の民が頭と顔に布を捲いているのがよく分かった。僕はと言えば、そのまま寒い風を受けつつ、砂嵐の中で方向さえ分からなくなってしまうのが心地よくもあって、さらに惑うように歩く。砂の中に駱駝が数頭、ニュッと現れでた。駱駝たちはどうと言うこともないかの如く、悠然と砂嵐の中に立っている。

 砂の中でどんどん暗くなっていき、街灯に惹かれるように戻ってきて、再び寂しげなカフェに入る。そこで写した写真を見て、なんとなくパソコンに移したつもりで、データを消してしまった。まさに砂にやられていた。その側に、店員が巨大な角砂糖を持ってきて、飲み方を説明しているが何を言われているのか、サッパリ分からない。

 戻ってきて、ホテルオーナーの料理を食う。これが美味かった。モロッコに入って一番美味いタジンであった。とにかくすべてが美味かった。朝も素晴らしかったし、この値段にしては驚くべき味であった。

 1月20日。今日は嵐が嘘のような日。スッキリと晴れてはいないがぼんやりと晴れていた。駱駝に乗って、サハラへと入った。


2013年1月17日木曜日

サバティカル日記12 ワルザザード②

  朝起きたときから、どうにもスッキリしない。外はまだ明るくなく、街灯がぼんやりと灯ったままだった。神経を休めないできたのが、ここに来てどっと出ているようでもある。その上、カフェ文化だけは発達しているから、緑茶にミントを入れたミントティーを飲むか、ブラック珈琲かカフェオーレを何かにつけては飲んでいる。甘いミントティに限らず、みんなよく砂糖を入れて飲む。このせいもあるだろう。からだの興奮状態が取れない。疲れているはずが、嫌にならず、さらに動きに転じてしまう。

 モロッコに来てまだ4日しか経過していない。でも食事には飽きが来だしている。まずくはない。美味いのだが、種類がとても少なく、油物が多い。油は癖にもなるが、飽きが来やすい。改めて東アジアの食の豊かさに思いを馳せた。日本・中国・韓国の食は本当にゆたかで多様だ。この多様さと人間の精神の共通項はあるのだろうか?あって当然だと思うが、どうなのだろう。
 モロッコもこの辺りに来ると、もはやすべてが土から成っているような感覚に陥る。土や赤土で家は造られるから、家の色味はどこも一緒、土色である。色味が一緒だから、どうにも見分けが付きにくく、幻惑に一層拍車を掛ける。冬のこの時期は風が吹き、砂が舞うのだという。昼間、特に夕方になると目を開けていられないほどだ。明るくても砂によって居場所が分からなくなり、夜になればたいして街灯が点いていないところもあり、モロッコの民族衣装のジュラバを着ている人たちが、まるでネズミ男、ネズミ女に見え、彼らがヒョイヒョイと街角から現れて、すっと消え入るように消滅する。黒いジュラバを着ているとさらにその幻惑感が増していく。色味は黒と茶の世界。

 レンタカー屋の親父とホテルの受付の兄さんに、お勧めの場所を聞いた。小さな街だがとても美しいところがあるから絶対に行った方が良いと勧められた。ワルザザードから43キロほど離れた街。
 レンタカーを走らせた。街道名はカスバ街道。ここを昔はラクダの隊商たちが移動したのだという。ゆっくりゆっくり移動したのだろう。アトラス山脈が続き、これが何百キロにも渡って続くのである。明日はこの街道をバスでひた走り、8時間乗ってベルズーガ入りする。カスバ街道はその名の通り、カスバ、すなわち要塞から成っている。太陽と土とわずかばかりの植物が生えているが30キロ以上は他にはなにもない。それでもその大地でサッカーをやっている子供たちがいる。歩いては手を上げてヒッチハイクをしようとする地元の人たちがいる。あるいはグランタクシーに乗って、途中まで来て、町も家も見あたらないのに道のないところを山の方に歩き出す人がいる。山の向こうに自宅があるのだろう。

 お勧めの町はどうだったか。面白かった。彼らと私の感覚の「美しい」には大きなギャップがあった。ワルザザードからカスバ街道を経て、たぶん逆もそうなのだろうが、メルズーガ方面からカスバ街道を経てこの街に入ると、ここは本当に美しく感じられると思う。色味がある。茶色い色味一色だったのに色が差してくる。ワルザザードもそうだが、他の街は色味が少ないし、カスバの名の通り、土でできた要塞と、砂と赤土が延々と連続している大地を見るだけなのである。この荒涼とした景色に圧倒されるが、この土地に縛られたまま生まれ育ち、死んでいく人たちは決して少なくはないはずだ。この人たちにとって、この町はまさに色味のある、植物のある町であり、ゆえに豊かさと美しさが強く感じられる町なのだ。

 だが、植物はすべて土に覆われて、ヴィヴィッドな色彩ではなく、すべてが土と一体化し出しているようである。砂漠の民がターバンを捲いて食事をしていたり、歩いていたり。砂漠のオアシスなのだ、ここは、と思った。けれど、お世辞にも美しい町ではない。普通の町だが、その普通の町を美しく感じるだけの強い土色の感性を持っているということでもある。この景色、色味を生まれてから見てきた人たちにとって、ここはとても美しい町に違いない。

2013年1月16日水曜日

サバティカル日記11 ワルザザード①

  マラケシュは結構、疲れた。人間疲れだ。まるでインドのようで、次から次へと声を掛けられ、人々はいかに嘘を付くかばかり考え、全然信用できない連中の多さたるや、ため息だ。そして若者ばかりだ。が、そもそもこういうグチャグチャした空間に集ってくる若者だから、これまたインチキくさい。まあそれだけにエネルギーは凄いとも言える。言えるが、ごまかしと嘘が本当にせこいから、面倒くさくて、いいやとなってしまう。小悪ばっかりやりやがって、と思って見逃すことにしてはいた。
 それにしても全然、分からなかった。地図を見てもホントに訳がわからなくなってしまうのである。どうにも行こうとするところにたどり着けず、断念したことが何度もある。スークという商売人が集まって、観光客が集まる場所はもの凄い数の商品が売られており、そもそも買う気はゼロだからどうでも良いのだが、この人たちはカメラを向けようものなら金を要求するのが当たり前だ。これはインドとはまったく違う。インド人たちは撮って欲しくて仕方ないので被写体としては楽だ。そしてこのスーク。もう歩く度にどこにいるのか、まるで分からなくなる。グルグルグルグル回りながら、疲れる商売人たちに買え、買えと言われつつ歩くのは、やっぱりシンドイものだ。

 結局、マラケシュは三泊したが、もう充分となって、ワルザザードに行くことにした。サハラエクスペディションって看板はいろいろなところに掛かっている。サハラ探検。短期間で効率よく回るにはこういうツアーに出るのが楽なんだそうだが、ノンビリ行くことにした。そこでまずはワルザザードに入る。ここはサハラへの入口の街である。とは言え、ここに行くまでが凄い。だんだん荒涼としてきて木々がなくなり、草がなくなり、大地しかなくなる。よくぞこんなところに人が住んでいるものだ、と思うようなところでも人は住んでいる。川が流れていれば水がある。山にはまだ雪が残っている。というより、これからか。
 そしてワルザザード。急に荒涼とした大地の中に街が現れる。マラケシュから4時間半でここまで来たのだ、という感慨が沸いてくる。一歩、降りると砂嵐が舞っている。目が痛い。とにかく目を開けてはいられないのだ。そしてすべては壁もなにもかも街全体が土色である。赤い土の色をしている。
 街は大通りがあって、非常に分かりやすいはずが、これまたホテルの受付に従って歩くとわけが分からなくなる。迷路ではまったくないが、どうにも分からない地図だ。そして砂が舞い続けている。ブルーノシュルツの小説の背景とはまったく違うけれど、シュルツのストリートオブクロコダイルを思い出す。地図があってもたどり着けない。まさにマラケシュがそうだった。ワルザザードはまるで違うが、人の案内がないと分からなくなる。言うことも人によって違う。実際、観光案内所で聞いた場所も案内人が間違えていた。
 モロッコというと、ポウルボウルズがそうだったな。シェルタリングスカイ……。ボウルズはこの迷宮感覚に魅せられたのだろう。よく分かる。考えよう、見ようによっては楽しい。

 放っておくと、食事はパンと肉になってしまう。野菜が欲しい。野菜を意識して欲しないと、ジャガイモくらいしか食えない。

 明日はレンタカーを借りて、このあたりを走ってみようと思う。こういう場所は自分で歩くことだ。それが一番である。

2013年1月14日月曜日

サバティカル日記10 マラケシュ①

 今は14日の18時40分。13日はお昼頃までは、もろもろ調査。それからコロニアグエル教会に出かける。これもガウディが建築した建物である。柱が曲がっていたり、天井が曲線状になっていたり、いかにもガウディ。ガウディばかり見ていると、生物が頭の中に入り込んでしまったような感覚になってくる。それは私の中の秘密の場所に入り込んで、むずむずとし出している。なにかを感じさせるのだ。それがなにかは分からないのだけれど、なにか大きなドラマが私とガウディの中に作られていくような、そんな感触。

 ピカソ美術館に行ってみたら長蛇の列。なんでも日曜の15時からは無料になるとかで、若者たちがこぞって押しかけている。だから諦めた。
 チャイニーズを食ってノンビリとバルセロナの旧市街を眺める。カフェに行って眺める。なんとなくボウとしながら街を眺め、そしてカタルーニャを考える。ここは今でも独立運動の盛んなところだ。

 夜21時45分バルセロナ発の飛行機に乗り、23時にマラケシュ着。近いモノだ。とは言え時差が一時間はあるから2時間は飛行機の旅。
 迷路だからということで、タクシーに迎えに来てもらい、そのままホテルへ。確かにそうだ。迎えがないと難しいかも知れない。そのくらい入り組んで分かりにくい。

 今日も、グルグルとメディナ内を歩く。どこにどう繋がっているのかまったく分からない。迷路を歩く。これがフェズになるともっと凄いという。フェズは昔から行きたいところだった。迷路という言葉に惹かれる。私たちは常に迷路にいる。その迷路感覚が私を強く引きつけて止まない。理路整然としているのも良いが、そのつまらなさを改めてガウディを見て感じていたところではある。
 迷路を歩きながら、一週間ばかり長くモロッコに滞在することにしたので、どこに行こうかフラフラと訳も分からず歩き続ける。いつかどこかに出るだろうと思いながら。


2013年1月13日日曜日

サバティカル日記9 バルセロナ②


1月13日 バルセロナ②

 

 スペイン危機と言われていたが、街を歩く限り、全然危機的気配はない。思えばIMF介入前の韓国も一般の生活には何の支障もないような雰囲気が漂っていた。危機は突然、やってくるが、それまでは一般庶民の目からは遠ざけられ、見えないようにさせられる。リーマンショックにしても同じ。まるで危機的感触を感じない人たちの中に突然、何事かが宣告される。見えたらパニックが起きる。日本はどうか。3・11ショックの後、どう私たちは変わったのだろうか。変わったと感じる人はほんの一部で次第に元の黙阿弥と化していった。けれども唱え続けなければ変わるものも変わらないという人たちもたくさんいた。私もそう思い、そのための動きを作ろうとしてきた。けれど、体制側は常に何事もないことを装うから、本当に危機をダイレクトに味わった人間でないと見えにくい。

 今、急速な円安に動いている。ここに来て円安になるというのは海外にいる私にとっては痛い。痛いけれど、国全体で見たときに、実体経済にあっていくわけだから、悪いわけはない。しかし、問題は反動だろう。虚を掴むような政治をずっと続けてきているわけであって、当分は良い感触を持つかも知れないが、今の政治のあり方ではまたしても反動がやってくると思う。それは今までの方法を見てきて感じることであって、明確な理由があるわけではない。だからぬか喜びしないこと。

 

 さて、昨日から今日に掛けて、領収書の整理やら、起きた問題の処理やらメールの返信やら、マリ情勢の把握やら、結構てんてこ舞いであった。

 

 昨日は朝からサグラダファミリアに行った。感動したのはもちろんでそれについては後述するとして、アントニオ・ガウディだとばかり思い込んでいたのだけれど、スペルをよく見るとAntoni である。オがない。アントニ・ガウディでなければならない。何でオがついたのだろう。不思議だった。

 それに加えて不思議な気分に陥ったのは凄まじい程の日本人の数だ。僕は朝9時~11時の2時間、サグラダファミリアにいたが、客の半分は日本人で、次に韓国人、中国人。つまり三分の二くらいを東アジア人が占めていた。またこれらの人たちの9割近くは団体客であって、ツアーコンダクターに連れられてぞろぞろと移動している。日本人がGNP世界第二位(今は三位になったにせよ)になって40年以上が経過しているにも関わらず、精神的には集団でしか動けないのだなあと改めて強く印象づけられた。言葉が分からない等の問題はあるだろう。スペインと言ったらサグラダファミリアというくらい定番化しているからみんな見に来る。僕も行く。けれど、井の中の蛙状態の人たちが外に出ようとすれば、勢い組織で安心して移動したくなるのだろう。そういうメンタリティしかまだまだ持てないのだと思う。このメンタリティを変えなければ、日本はやはり世界とは対抗してはいけない。言葉が分からなくても不安でも自分で動こうという人がもっともっと増えなければ……。失敗しても間違えても、たいていは死なない。よほどでもない限り死ぬことはないのだが、不安でしょうがなくなるのだと思う。日本人はもっと右も左も分からないような状況の中、自分で判断せざるを得ないという立場に自分を置く必要がある。それを若い時からやってこそ、国を跨ぐことができるようになる。

 

 サグラダファミリアは素晴らしかった。最も素晴らしく感じたのは光である。刻一刻と光が変わる。その光のあり方にサグラダファミリア内は絢爛たる空間に変わったり、静けさをもたらしたり、延々と光と空間のコラボレーションによるオーケストレーションが奏でられ続けるのである。この光の動きを間違いなくガウディは設計に取り入れていたはずだ。意図せずにできるものではない。光は光であるが、音でもある。音は時間を内包しつつ、空間の感触全体を変えてしまう。そのようなメタファーとして存在し得ている。スケールの大きさは西洋カテドラルを見続ければ分かるが、極端に大きいわけではない。だが、この現代性はなんだ。素晴らしい現代建築なのである。ガウディが死んで90年近くが経過するというのに、カサ・バリョもそうだったけれど現代アートと言ってなんの不思議もない。

 それは命を孕むからだ。光の命、光と空間の命、そしてそれが時間性を孕んで音を奏で出す。少なくとも僕の中では音になって響いていた。その響きを聴けば、僕自身が生命体となって輝き出す素地になる。空間が僕に溶けて、僕自身が空間的広がりを持つのである。

 

 グエル公園にも行った。ここはちょっと歩き疲れてしまって、ベンチでウトウトしていた。アントニ・タピエス美術館にも行く。素敵だ。が、ガウディを見た後だとそのスケール感の違いで僕の中では勝手に損をしてしまっている。

 疲れ切ってカフェに入ると、マリ情勢が流れている。スペイン語なので何を言っているか分からない。ネットで日本語の情報を調べてみても何も出てこない。英語ではいろいろ出ている。日本は確かにアフリカとは縁遠いだろう。でもまるで出ないのである。

マリの参事官から、フランス人は退避勧告が出ていると知らせてくる。日本大使館としても避難せざるを得なくなりそうとのこと。もちろん来るな!とのメールだ。


 
 本日は、朝から昼1時ころまでは領収書整理。マリ情勢把握。最も楽しみにしていたマリ行きだが、やはり情報を纏めるとボゴタが危険地帯になるのも間近になりそうである。だから、急遽、マリ行きを取りやめることにした。

これだけ決めて、モンセラットという奇岩地帯に行く。ホテルから片道2時間かかる。なかなか凄い地帯ではあって、ここに自分ひとりしかいなかったら強い感慨を得ることができるに違いない。だが観光客だらけで、飯を食ってすぐに引き返す。この間1時間。4時間かけて1時間見る。まあ、それも良いが、僕は風景よりは人が生み出すものの方がずっと面白い。

戻ってきて、さらにマリ情勢把握を試み、やはりダメだと諦めて、マリに到着した日のホテルだけは決めていたので、そのキャンセルをする。あと航空券はキャンセル効かないだろうなあと思いつつ、一応、打診してみる。モロッコ航空とエチオピア航空だ。さて、どうなることやら。でもこれで10万円近い出費だ。とにかく調べたり、打診したりするにも時間が掛かる。ロイヤルエアーモロッコはフランス語でしか返ってこないので、英語で返せとメールを出し直したり。

 

明日は夜バルセロナからマラケシュに移動する。

少なくとも昼間にガウディのコロニアグエル教会とピカソ美術館には行きたいと思う。

2013年1月11日金曜日

サバティカル日記8 バルセロナ①


サバティカル日記8  カサ・バリョ


 再び、マリの参事官からマリの状況メールが入る。モプティよりも北部ではあるが、KONNAという街がイスラム過激派の手に落ちたそう。フランス大使館はマリ在住フランス人に注意喚起を促しているとのこと。昨日はなんでもマリ軍の車両が武装グループに強奪されたらしい。状況は急激に悪化しているというから、もう数日でどうするかは決めなくてはならない。何も危険地域にわざわざ足を踏み入れる必要もないし、状況が悪化してくれば、音楽だの踊りだのどころではあるまい。セグーでの音楽フェスもこの頃だと聞いてはいたが無理だ。セグーとKONNAは100キロくらいしか離れていない。とするとボゴタのホテルにいるしかなくなる可能性もある。航空券もボゴタのホテルも押さえているので、それらのキャンセルが利くかどうか?航空運賃は無理だ。利かないように思う。カサブランカ⇒ボゴタ、ボゴタ⇒ダカールは完全に無意味になってしまう。結構高いんだよね、アフリカのチケットって。格安航空券やLCCなんてまったくないからね。まあ、チェック!

 

 今朝早く、セビリア(実際にはセビージャと発音)からバルセロナ入りする。

 ついに生でガウディの建築を見た。カサ・バリョを見て回った。何と言葉にしたらいいか、というほど感動した。そもそもガウディがいなかったら僕がこの世界と関わっていたかどうかさえ怪しい。形をなぞっていく度に感動が深くなって、何度鳥肌が立ったか。生き物として息づいている空間。生物の痕跡がそこかしこに残り、それが人と照応しながらさらに高め合う場となって、人がいたらいたなりに、不在なら不在なりに命を持っている空間となっている。

ひとつだけ大きく勘違いしていたことがあった。それはガウディは美学性を重視して、快適さを犠牲にしたのではないか?ということだが、いろいろな面で理に適っているようで、拍車を掛けて深い感動となった。

 ただ、ガウディのような人物が生まれ、評価されたのも時の運があったためである。フランスのアールヌーヴォーの運動と時を同じくして、バルセロナでも同様の運動があり、バルセロナが好景気であったために、ガウディは一気に持ち上げられていった。この運動と景気がなかったらガウディの生涯もまったく異なったものになっただろう。

 カサ・バリョのすぐ側のカサ・ミラが年に一度きりの1週間の休みとまったくぶつかってしまって見れないのが凄く残念。

 あまりの気分の良さにフラフラと、呆然と歩いていた。

 

 やっぱりガウディは素晴らしかった。スペインの生んだガウディとピカソとブニュエルには感謝だ。あなた方がいなかったら、僕は別の道に進んだと思う。それほど大きい影響がある。圧倒的感動とは生命力の宝庫だと改めて思った。

2013年1月10日木曜日

サバティカル日記7  1月9日 午後8時10分

1月9日 午後8時10分

 昨日の14時にセビリアに入った。アンダルシアは良い、というか僕のからだにフィットする。けれど寒い。クソ寒い中、レストランやカフェに行くと外を勧められるのだからね。暖まりたいのに外にも暖房があるから外の方がずっと良いじゃないかと。
 
 昨夜、どうにも寝られず(珈琲の飲み過ぎ?)、やはり気管の調子が良くない。寝ているときがダメで、起きると問題が消えるのだからどうなっているのか?昼間はまったく問題ない。夜になると気管がオカシイとなってくる。

 それでも昨夜、セビリア一(と言われるらしい)のタブラオに行ってきた。コルドバのタブラオでいたく感激し、再び行ったのだが、コルドバのタブラオを凌いで素晴らしかった。値段も倍近かったが、感激すれば値段は気にならなくなる。値段に意識が行くのは公演後つまらなかったときだ。
 フラメンコがどうやって成り立ったかは分からないけれど、音楽的にはまさしくアラブとロマだ。アラブの旋律とロマのリズムが入り込んでいるのだから得も言われぬ魅力を放つのは当然で、妖艶で濃厚な芳香が漂う。ヨーロッパの音楽や舞踊とはずいぶん違う。アイリッシュダンスは足でリズムを叩き出しつつ、上にも伸びていくが、フラメンコの足によるリズムの叩き出しはすべて下へ下へと下がっていく。その点でもヨーロッパの舞踊の系譜には入らない。多くの舞踊家たちがクルクルと回るとき、ポイントを地面に付けている。まったくバレエ的ではない。そして感情を露骨に表に出してくる。派手な顔をした人たちが、すべての感情を舞踊に託してたたきつけているようであるが、音楽もまた同様で、ギターと歌と手拍子と舞踊家の足のリズムによってポリフォニックなリズムを形成しつつ、コブシを回しながら歌われる歌はそのリズムに乗りながら、熱情を高らかに歌い上げていく。これが実に豊かで感情がふくよかであれば、見ている方が興奮しない方わけがない。この日の歌い手は皆、素晴らしかった。舞踊家たちにもかなり唸らされた。
 闘牛ももともとアンダルシア地方で興り、フラメンコもそうであるから、これは沸々とたぎる血と死をイメージした生の歌であり踊りなのだろう。とにかく素晴らしい踊りと音楽に酔いしれた。

時間がなくて、計画らしい計画を立てずにスペインに出て来てしまった。今後にしても大雑把な予定だけしか立てていない。そもそも3泊4日くらいの旅の出で立ちで40日を過ごすのである。全部で10キロの荷物しかないから、軽い軽い。そもそも荷物を預けるのが嫌だから、とにかく徹底して軽くしている。カメラもこのために軽いカメラを購入してきた。一眼レフのレンズ入れると1キロ以上にもなるカメラは辛いから、オリンパスの今宣伝しているOMにした。一応一眼だし、形が良いから持っていても楽しい。けれど、やはりニコンD800にしておけば良かったかな。物足りないのは仕方がないので何を取るかだ。

マリ共和国が危険になりつつあるということは情報としては知っていたが、在日マリ共和国のスタッフは「北部は危険だが後は大丈夫」と言っていたのでそれを信じていた。けれど、在マリ日本大使館の参事官の方からメールを頂き、「危険だから可能な限り来るな」という状況らしい。今週中にも北部のイスラム原理主義組織が南進を始めるとのこと。モプティは原理主義組織の管轄に入ったとも。ドゴンにはとてもじゃないが行けそうもない。すでに日本人は皆避難していると言う。外務省の海外渡航危険情報では、バマコは「渡航しないことを勧める」という勧告だけはあった。退避勧告ではない。ウウム、困った。でも全部飛行機だけは押さえてしまっている。キャンセルがきかない。かつ、今回セゾンに申請したメインはマリ共和国で、マリに行かなければ出てきた意味は薄い。参事官からは大使館としてバマコ以外に行くことはまったくお勧めしませんと言われてしまっている。そりゃそうだろう。
バマコでもライブハウス等、いろいろと見ることができれば嬉しいが、それさえも見れなければ・・・・困った。何でも年末はお通夜のような静けさだったとか。

 セビリアもだんだん飽きてきた。と言うより、ヨーロッパ的なものに飽きが来ている。今日も中心にそびえ立つカテドラルに行ってはみたが、キリストオンパレードであり、その権勢欲の塊であるカテドラルの威容に「なるほど、凄いもんだね」とは思ったけれど、それ以上ではない。キリストの首が横になっていたり、磔キリスト像を見ても、キリスト教徒ではない私には、こうやって見続けることに、そもそもキリスト教徒たちを圧してきた時の権力者たちの意識ばかりが見えるだけとなる。
 今回の旅の最後にはイスラエルに行く。イスラエルは果たしてどう見えてくるのだろう。

2013年1月8日火曜日

サバティカル日記6  1月8日 朝 10時45分

1月8日 朝 10時45分

 昨日はよく寝た。9時間も寝てしまった。体調はまだ今ひとつ。気管支が良くない。日本にいるときとは大違いで毎日よく歩く。歩くのは気持ちがいい。思えば、よく歩くなあと思うのはいつも海外で、かつ何らかの助成金をもらって、滞在している時だ。公演ツアーの時は無理。公演目的なのだから無理なのは当然だが、そのような余裕はどこにもない。台本を書きに海外に出てしまうときは、やはり歩く。歩くが、歩いてはカフェに入り、台本をちょろっと書いてまた歩き、またどこかで落ち着いては書くという具合。余裕が台本を進める。毎回、まるで時間がない中で追いつめられるような状態で書くが、海外はリラックスしながら日本語環境から自由になって、仕事とリラクゼーションと両立しながら、である。思い返せば、1988年にフランス外務省の招待でパリに滞在したとき。1994年にACCの助成でアメリカを旅したとき、そして今回。と結局、一番ノンビリしているのはこんな時かも。として考えてみると約19年ぶりになる。よくぞバタバタと動き続けてきたものだ。この19年間で創作した作品数はパパ・タラフマラでは42作品に上る。その他、ワークショップやらP.A.I.での創作、つくばの監督時代の作品等加えれば全部で80作品程度はあるはずだ。

 とは言え、なかなか日本と連絡を取らずに済ますわけにはいかない。便利さが不便さを生んでいる。不便であれば、自分が責任を持たなければならない。けれど便利さは責任の所在を自分自身から簡単に遠ざけてしまう。メールやスカイプなどというツールがあの当時はなく、せめてファックス、国際電話。バカ高い国際電話など使う気はしないからファックス。でも今では連絡が取れない方がオカシイとなる。けれど、こんな8時間も時差のあるところで当たり前に連絡が取れるというのは考えてみれば、世界は妙に矮小化され、かつ、肌身に染みて感じるのは奇妙さだ。しかしこの奇怪に気付かない人たちが本当に多くなった。メールはその感覚を助長させた。世界は日本の延長にしか存在しないから、日本の状況そのものを海外にまで持ち込もうとする。けれど、このような人たちの集まりだと、きわめて奇妙な意見の一致をみる。自己判断の回避である。つまり社会全体で子ども化が起きてきたのである。日本はどんどん幼稚になりつつ、世界の幼稚化の先頭煮立ってきた。幼稚世界は他人事なら気付いても、自分自身のことになると気付かないのが今の若者たちだろう。だから内弁慶化が起きる。幼稚であることを自覚することからしか始まるまい。

 コルドバの街をふらふらと歩き、メスキータに行く。イスラムのモスクを造ろうと始まり、カソリックが征服して入り込んだ建物は妙な感触がある。柱が850本もあるという。以前は1000本以上あったそうだ。漏れ出る光が美しい。その光に当たろうと何人もの人が光に吸い寄せられていく。時間と共に移動する光は空間全体の大きな支柱になっているかのように神々しい。
 その場から場外に出てくるとギターをかき鳴らしている若者がいる。歌はスパニッシュポップスなのだろう。面白いのはちゃんとコブシが回って響いていること。アラブアンダルース音楽ではギターは使わない(と思う)から、これはロマの影響であることは分かる。ロマとは西インド、ラジャスターンの音楽や舞踊で生計を立てた被差別民に端を発し(と言っても未だにラジャスターンにはそのような人々がいる。つくば時代に彼らを呼ぼうとしたこともあった)、ヨーロッパ中に広まっていった。特にロマとしてはルーマニア音楽が有名だ。ルーマニアでもまた、ロマは未だに大きな勢力を築いている。

 それからノンビリと橋のあたりで過ごし、街で最も有名だというレストランに行く。誰もが絶賛するとのことだったが、たいしたことはなかった。まずくはないが、驚くほど美味くもない。

 それにしても空の青いこと。抜けるような青空。バタイユに青空という小説があったが、アンダルシアの青空に雲ひとつなし。スペインに入って以来、雲を見ていない。雲が恋しくさえなってくる。抜ける青空は私の心に青空の心を問い掛けてくるようだ。

2013年1月7日月曜日

サバティカル日記5  1月7日 10時50分 コルドバにて

1月7日 10時50分 コルドバにて

こちらは朝が遅いので、この時間でも完全に朝の気分。早朝はまるっきり活気がない。朝6時くらいになると活気に満ちるインドネシアが懐かしい。
それにしても寒い。寒いけれど、今、入っているカフェには暖房がないのでは?と思えるくらいの温もり。客は、暖かさよりも、寒さの中で震えもせず寒さに身を浸して楽しんでいるかの如くである。外よりは息が白くならないだけマシか。それでもこちらの人たちは半袖でいたりするので、温度の感じ方が違うとしか言いようがない。それにしても寒い。けれど外でも息を白くしてサングラスを掛けながら珈琲を飲む人たちも結構いる。なぜ?

昨夜、コルドバのタブラオ(フラメンコダンスを行うところ)に行ってきた。ここは20万人程度の小さな街なのでまったく期待せず、所詮、観光客向けの踊りだろうと思っていた。一応、来たから、行ってみたというに過ぎない。ところがこれがまったく裏切ってくれた。凄かった。観光客と言っても、ほぼスペイン人。要するに地元スペインの人間に見せるフラメンコなんだから中途半端なことはできないってことなのだろう。僕も何回かは日本でフラメンコを見ている。しかし、そのレベルを遙かに超えた本気度があって、輝いていた。踊り手も歌い手もギタリストも、まるで手を抜いていない。観光客向けの手抜きの様はいろいろなところで見せられてきたが、この人たちからは強い誇りを感じて、嬉しくなった。

フラメンコダンスをどう捉えればいいか。僕はアラブの音楽こそが世界で最も旋律の美しい音楽だと思っているけれど、スペインはイスラム帝国の一部であって、その影響が濃厚に滲み出た音楽がスペイン音楽である。今、スペイン音楽やトルコ音楽はアラブ音楽には分類されないが、アラブ的であることは間違いない。このアラブにロマが入り込んで強烈なリズムと妖艶さ、激しさが生み出されたのだろう。特にここアンダルシア地方ではアラブが濃厚に入ってくる。踊りにしてもアラブとヨーロッパとロマの融合なのだが、アラブとロマ色が強い。だから強烈に惹かれる。(アンダルシアと書いただけで「アンダルシアの犬」の映像が頭を過ぎってしまう。いかに人間が視覚的生き物であるか。)

今回のスペイン、モロッコ、マリ、セネガル、イスラエルは音楽の旅だとは前に書いた。だからこそ、実はモロッコと共にアルジェリア、チュニジア、リビアにも足を踏み入れたかった。それはアラブマグレブと言われる地帯で、アラブアンダルース音楽を堪能しようという旅でもある。ただ、これを計画した段階(つまりセゾン文化財団に申請書を提出した1年3カ月前の時点)では、まだアラブの春による、政情不安が語られていたため避けたのだった。しかし、特にアルジェリアには行ってみたい。
とは言え、アルジェリアは危険地帯だ。危険度は真っ赤っか。ならば果たしてマリは大丈夫なのか? 情報は入って来ないが、北部は完全にイスラム原理主義組織に制圧されている。外務省の渡航情報を見るとこれまた真っ赤っか。ウウム。この前、在日マリ大使館のスタッフ(日本人)は大丈夫と言っていたんだけど・・・。

 今、カフェで掛かっている音楽のなんとまあアラブ的濃厚さが滲み出ていることか。タブラのような音が鳴って、永遠に続くかと思えるような朗唱の歌がうねうねと続いている。この感覚なのだ。そしてこれは街の感じともそっくりである。ここコルドバのユダヤ人地区を歩いてみると、やはり迷宮感覚に陥る。それはトレドでもそうだったが、さらにモロッコのフェズあたりにはいると、この迷宮感覚はピークに達するのだろう。
 コルドバでさえ、音を聴いて高鳴っている。ならばアラブマグレブのモロッコに入ったらどうなるのだろう。マラケシュ、フェズ、そして砂漠の旅。モロッコの楽しみをこの音に託しておこう。うねる音楽。うねるからだ。うねる呼吸。うねる心臓音。

サバティカル日記4  1/6 コルドバにて 夜9時

1/6 コルドバにて 夜9時

バスが途中で故障し、代車待ちとなって、2時間近くも待たされた。お陰でコルドバ入りは15時半を過ぎてしまった。6時間半も掛かった計算になる。多くの乗客も運転手も英語ができず、さて、どうなっているのかサッパリ分からないような状態だった。こういうときは勘に頼るしかない。勘で動く。
スペイン語の勉強をして、スペイン語圏で演出して欲しいと頼まれたこともあったけれど、やはり言葉は若いときに馴染まないとダメだ。多様な言語を知るには、実は二つ以上の言語を聞いて育つのが良いのだろうと思う。二つの言葉があることで、耳に余地が生まれ、それ以上でもすらすら入って来やすいのではないか。聴覚が育つのだと思う。聴覚は原初性を持っているから、その原初的感覚を保持している間に耳に馴染ませるのが良い。と言っても、もう私のこの年になってしまうと厳しいことは間違いない。

バスターミナルに着いて見渡すとインフォメーションセンターは閉まっている。少なくとも地図くらいは手に入れねば、と駅で聞いてみる。小さな地図を渡される。今日のホテルは昨夜のうちにブッキングしておいて良かった。インフォメーションが開いていないと辛い。ここコルドバには二泊することにしたのだった。グラナダとどちらへ行こうかと迷い、コルドバにした。両方を選択しても良いのだが、その場合は一泊ずつになる。一泊だと結局、移動し続ける感覚になってしまうので、せめて二泊。ならば静かな雰囲気のあるコルドバへ。

昨日までのホテルはホテルというよりもホステル。安宿に泊まっていたわけだが、今日はホテルにした。昨日までに比べるとかなり豪華な感じ。そして町歩きに出てみる。マドリッドやパリよりも僕はずっと好きだな。もちろんトレドよりも良い。瞬間、メキシコのグアナファトを思い出した。ユダヤ人街だというので、グアナファトとはずいぶん違うはずだが。感触としては、アジアで言えば、ペナンやマラッカのような感触と言えばいいか。ペナンもマラッカもゆっくりと滞在したい街だ。何があるわけでもない。ここは寒いので(と言っても夏は暑くなるそうだ)、ペナンやマラッカのようなわけにはいかないが、やはりゆったりと時間が流れている感じがある。いろいろな文化が混じり合って、それが溶けて時間の中に染み出るように残っている街。それがコルドバだ。

2013年1月6日日曜日

サバティカル日記3 1/6 朝9時 コルドバに向かうバス内にて

1/6 朝9時 コルドバに向かうバス内にて

朝9時。やっと太陽が昇り出したばかり。バスの外は霜が降りて真っ白だ。指定席に座っているのだが、隣にいるお姉さんが巨体で、肉塊に押し出されそうな感じ。足も腕も俺の三倍くらいはある。

昨日から気管支の調子が悪い。毎日、歩き過ぎているようで疲れ切り、夜は飯を食いに出る元気がなくなっている。
4日夜は20世紀美術を集めたソフィア美術館に行く。これが素晴らしい。毎日19時以降は無料になる。かつ、土曜日は午後2時半以降が無料。21時閉館だから、平日は2時間見ておしまい。通常料金は6ユーロだからかなり安い。これがプラドあたりになると倍はする。僕は19時20分頃に入ったが、観客は入っている。現代美術に対する取り組みとしては、非常に良い仕組みだと思う。無料であれば、入ってとりあえず見てみようとなり、見た後、これは面白いと感じれば、金を払ってでも見ようとするだろう。金がない人は毎日夜に来ればいい。こうして鑑賞眼が付いて、見ることが日常化していく。毎日21時までやっているのも良い。仕事帰りに来ることができる。こういう仕組みをもっと日本でもやれないものか。
時間がなくて、この日は2階部分のアートしか見ることができなかった。集中して展示してあるのはなぜか2階と4階なのだ。その2階部分のアート。20世紀アートはキリストの影が一気に消えるかの如くに見えるほど、キリストから遠くなってくる。キリストは後ろに引っ込んで、次々と新しい躍動が生まれた。けれど、その根幹にはキリストといかに対峙するかという問題を常に抱え込んできている。無神論ももちろんそうだ。そうした圧迫感が常にヨーロッパにはある。
膨大なコレクションの中で、ピカソとマッソンが強烈に面白く、特にやっぱりゲルニカが凄かった。ゲルニカはスペイン戦争を描いたが、グレイの色彩で描かれる画面は圧倒的な迫力で迫ってくる。面白いというレベルを超える。かつ改めて西洋絵画は数多くの死体と戦争を描き続けてきたかを思う。
加えて、初めて見たがブニュエルの無声映画がきわめて面白かった。僕の最もフェイバリットな映画監督はブニュエルなんだが、ブニュエルは初期からやっぱり凄いのである。アンダルシアの犬は誰もが知るけれど、この映画は、勝るとも劣らない。タイトルは何だったかな?

これらを見た後、フラメンコでも見に行こうと思ったが、疲れ切ってダウン。

さて、翌日5日。5日はゆっくりしていようかと思ったが、ふらふらと吸い寄せられるようにトレドの町に行った。トレドは見なければならない、と言う人が多いので行ってきた。まあ、確かにヨーロッパの古都であり、きれいな町ではある。ギリシア人、エルグレコが離れなかった町としても有名。キリスト教とユダヤ教とイスラム教が混在化していると言われている。けれど、多く世界を歩いていると、こういう町は興味深いが、それ以上でも以下でもない。トレドの素晴らしさを誰もが言う割にこの程度か、という感じが強い。それは観光地化していく中で、町から生活の匂いが薄れ、逆に詰まらなくしていることもある。が、ヨーロッパ、アメリカ、中南米に広がるキリスト文化をいろいろと見てくると、所詮、キリスト教文化であるから、飽きが来やすい。ここに中南米のように土着宗教が混じりし出すとまた、趣が大きく変わるのだが……。ヨーロッパの限界はキリストにあり、そのキリストという範囲の中で蠢いてきた人たちがヨーロピアンで、キリストというボーダーを意識しつつアートは生み出され、かつアート評価がなされてきた。こう考えれば、他の文化圏のアートなどはヨーロッパ側の視点から見れば、本道でなくなるのは当然だろう。だから、エギゾティックな異端であればあるほど良くなる。そして、それは表面的な異端としての相貌を持っていた方がずっといい。ヨーロッパの内部に踏み込めるはずもなく、踏み込んでもらっては困るのがヨーロッパ側の視点だろう。
それを考えるなら、ヨーロッパに認められたと言って喜んでいるアーティストは自戒せねばならない。私もかなりヨーロッパで公演はやってきている。しかし、どんなに評価が良くても、その評価には搾取の視点が入っているように思ってきた。

それとは別に、昼飯を食いに入ったレストランは最高だった。昼飯を食うにしてはやたらと高かったけれど、美味けりゃいいんである。味は値段を凌駕するのだ。

さて、マドリッドに戻り、再びソフィア美術館へ。4階に行く。さらに新しい時代の展示。真っ先に入った部屋では第二次世界大戦時の死体の写真と映像が次々と。いくつもの頭部がバケツにゴロゴロと入っている写真。首のない死体がズラリと並んだ写真。ブルドーザーで死体を次々と穴に落としていく映像。目玉が抉られた写真やら映像やら、隠し立てせずに展示する凄み。まさに二十世紀とは最も多くの死体を生み出した世紀でもあった。そして人類が人類としての生存のパラドックスを生み出した世紀でもある。
新しい技術としての映像。死。苦悩。文明とはなにかを問い掛ける
次第に絵画、彫刻を超えて、新たなアートが生み出されていった。一方、舞台はどうか。舞台も同じだった。が、しかし、身体という足かせが重く、足かせに縛られて、身体は逆に小さくなってきつつあるように感じる。

2013年1月4日金曜日

サバティカル日記2  1/4 夕方 マドリッドにて

1/4 夕方 マドリッドにて

昨日は、ルーブル美術館に行き、50分も並んで中に入り、4時間近く見て回った。
昔の印象はまったくなくなっていた。記憶が抜け落ちているかの如く、何にも覚えていない。見たはずなのだが、何にもない。あまりに圧倒させられる量にフラット化したのだろうか。物量が多すぎるというのは決して良いわけではない。とにかく見て回ることが目的化してしまいがちだ。あれだけの量があれば、じっくり一点を見つめることはできにくい。小さな美術館でさえそうなのだから、ルーブルになればもう見て回るだけ。エジプト、オリエント、ギリシア、ローマ……このあたりの創造物を除けば、あとはキリストのオンパレードになる。圧倒させられるキリストの物量。いかに強烈にヨーロッパがキリスト教と共に生きているかは、毎度のことだが美術品を見る度にそう思う。旅をしても同じ。結局、キリストだ。キリスト教は選民思想もあるから、当然の如くヨーロッパ第一主義が根本的な思想になっていく。僕がヨーロッパを横目でしか見ることができないのは、やはりこの思想にある。もちろんそんなに単純に言い切っていいわけではない。だが、実際にいろいろなことに接する度にそれを感じるのだから仕方がない。
ルーブルが昔と違って圧倒的に面白かったのは、エジプトであった。さまざまな半獣半人像があって、それが非常に面白かった。かつ、土偶のような置物もあれば棺桶も多様に陳列されている。今でもサブカル的に半獣半人は描かれるが、そもそも現状況に対しての行き場のなさが、こうした半獣半人に現れてくるのだろう。
これがギリシア、ローマになってくると、半獣半人は激減する。民間伝承等では獣人はどこでも描かれてきたわけだから、ギリシア、ローマでもないわけはない。でもこれほど面白いテーマが消えていったのはどうしてなのだろう。

と、そんなこんなで、4時間見て、空港に向かい、マドリッド入りは夜の22時半。中心地に出る。パリとは雰囲気はずいぶん違って、パリよりもスッと開放感が増す感じ。
マドリッドの町を歩き、バルを覗き、ホテルを探すがなかなか見つからず。こんな時間なのに閉まっている店はない。レストランでもだいたい24時近くまではやっている。
 
疲れ切ってホテルに辿り着くが、あまりに腹が減ったので一番近くの店に飛び込むとピザ屋だった。でもこれがうまい。赤ワインも頼んだが、水より安い。一杯の赤ワインが1.8ユーロ。水が2ユーロだかんね。

翌朝、というか今朝。ぐったりしながら起き出す。どうしようか、一応、観光でもしようか、と町中に出て、カフェで朝食。オレンジジュースとイベリコ豚とチーズを挟んだパン、それから珈琲ウィズミルク。どれもビックリするほど美味い。これで3.6ユーロ。日本円に直すと安くはないが、でもこちらでは他の物価を考えるとかなり安い。
ブラブラ町を歩く。まあ、面白い。が、所詮はヨーロッパだ。だんだん飽きてくる。まだ早いよと言われそうだが、ヨーロッパは基本は一緒だ。王宮に行ってみる。ゴテゴテした内装で、どこかしら血塗られた感触があるが、ここでずっと過ごした王たちはどんな思いで過ごしたのかと思う。なぜなら、空間が全体に不気味だからだ。しかし、不気味空間に嵌っているかのように、警備員たちの目つきがなかなか鋭い。そして威圧的な態度でいる。この人たちは一体どうやって選ばれているのだろう。あるいはこの空間に入るとそういう目つきになるのかも知れないと感じた。
巨大バルがあって、そこに入ってみると、どれもこれも美味そうで、海鮮物もぎっしりと並んでいる。しかし、疲れ切ってしまっていたので、とてもじゃないが立って食う元気がない。だが、スペインの飯は美味そうだ。文化混淆の素敵さがそこかしこから匂ってくる
結局、カフェに入り、カフェの昼定食を食いながら書いている次第。昼定食と言ってももう16時を過ぎている。けれどこちらの連中は朝はホントに静か。誰もいない。朝9時くらいにならないと明るくならないし。

2013年1月3日木曜日

サバティカル日記1  1月3日 朝  パリ

1/3 朝

パリの朝、クロワッサンが美味い。この味は日本じゃ味わえない。エスプレッソも最高だ。エスプレッソを一口飲んで砂糖を囓る。苦みと甘味が混じり合う。
今、パレスドイタリー駅のすぐ側のカフェ。パリは久しぶり。4年ぶりくらいだな。こういうヨーロッパの風景に昔はずいぶん憧れたものだが、次第にあまり楽しくなくなった。最初に海外に出たのもパリで、とってもときめいていたのに少しずつ醒めていった。それはヨーロッパのあり方がどうも好きになれなかったからだ。とは言え、はるかに日本よりは開放感があって、気持ちが晴れていく。
昨夜、シャルルドゴールの空港から何度も電車には乗ってパリ入りしたのだったが、まったくさまがわりしていて戸惑った。市内に入って飯を食いに外に出るが、それにしても食費はかかる。ホテルも高い。ユーロもドルも急激に上がって、2カ月前に比べると、成田の両替所では1ドルが89円になり、1ユーロが120円にまで跳ね上がっていた。食べたいわけではなく、マクドナルドに入って値段をチェックしてみると、いかにも日本の方がはるかに安く感じる。1ユーロ=120円でさえそうだ。3年か4年前にヨーロッパに来たときは1ユーロが165円していて、その時は飯さえまともに食えなかった。屋台のホットドックと珈琲を買っても1500円くらいになっていた。レストランなんてとても入れなかったな、と思い出す。
昨夜は、ホテル近くの中華料理屋に行く。パリのチャイニーズを美味いと思ったことはない。やはりどんな飯でも地元の飯が一番うまい、と言いたいが、そういうところもあれば、そうでないところもある。フランスはヨーロッパでは飯がうまい。うまいが、やっぱり俺はつくづくアジアの方が良いと思ってしまう。このクロワッサンでさえ、次第にバター味が鼻についてくる。けれど、ああ、このシズル感。
今朝、作曲家の中川俊郎さんからメールをもらい、快晴の空の下で……と書いてきた。私が快晴の空の下にいるという意味。でも快晴じゃない。今朝は雨がしっとりと降っている。このしっとり感がたまらなくいい。路面が光って、寒空の下、人が行き交う。嬉しそうな顔、悲しげな顔、うつむいたまま一歩一歩確かめながら歩く人、子供を何人も連れたお母さん、大きな荷物を抱えたホームレス……人は見ているだけで面白い。
同じく昔、国際交流基金の事業部長をしていた岡さんからもメールをもらう。彼女は今、青山学院大学の教授をしている。同じく大学からサバティカルをもらって、パリにいるのだが、たまたま今はワシントンだという。帰りにはパリに寄らないかと言ってくれる。そしてマリとイスラエルの大使館にいる知人を紹介してくれた。嬉しいね。
このサバティカルで何をしようか、と思う。何もしないのが良いのだが、何もしないのは性分に合わない。少なくとも、日記のような文章は書こう。
さて、今日はどうしようか。今10時半でフライトが19時だから、そんなにノンビリできるわけじゃない。雨も降っている。ならば、ルーブルかな。20年ぶりにルーブルに浸るか。

小池博史のサバティカル日記。

現在、小池博史はサバティカル期間として、約40日間の海外での生活を送っています。
その中で、見聞きしたことや考えたことなどをこのブログにてレポートしてゆければと考えています。
海外からの投稿となるため、ネットの環境も不安定なので毎日更新出来るか解りませんが、極力多くのレポートを残したいと思います。

サバティカル期間終了後もブログは継続します。

どうぞ宜しくお願いいたします。