2013年1月6日日曜日

サバティカル日記3 1/6 朝9時 コルドバに向かうバス内にて

1/6 朝9時 コルドバに向かうバス内にて

朝9時。やっと太陽が昇り出したばかり。バスの外は霜が降りて真っ白だ。指定席に座っているのだが、隣にいるお姉さんが巨体で、肉塊に押し出されそうな感じ。足も腕も俺の三倍くらいはある。

昨日から気管支の調子が悪い。毎日、歩き過ぎているようで疲れ切り、夜は飯を食いに出る元気がなくなっている。
4日夜は20世紀美術を集めたソフィア美術館に行く。これが素晴らしい。毎日19時以降は無料になる。かつ、土曜日は午後2時半以降が無料。21時閉館だから、平日は2時間見ておしまい。通常料金は6ユーロだからかなり安い。これがプラドあたりになると倍はする。僕は19時20分頃に入ったが、観客は入っている。現代美術に対する取り組みとしては、非常に良い仕組みだと思う。無料であれば、入ってとりあえず見てみようとなり、見た後、これは面白いと感じれば、金を払ってでも見ようとするだろう。金がない人は毎日夜に来ればいい。こうして鑑賞眼が付いて、見ることが日常化していく。毎日21時までやっているのも良い。仕事帰りに来ることができる。こういう仕組みをもっと日本でもやれないものか。
時間がなくて、この日は2階部分のアートしか見ることができなかった。集中して展示してあるのはなぜか2階と4階なのだ。その2階部分のアート。20世紀アートはキリストの影が一気に消えるかの如くに見えるほど、キリストから遠くなってくる。キリストは後ろに引っ込んで、次々と新しい躍動が生まれた。けれど、その根幹にはキリストといかに対峙するかという問題を常に抱え込んできている。無神論ももちろんそうだ。そうした圧迫感が常にヨーロッパにはある。
膨大なコレクションの中で、ピカソとマッソンが強烈に面白く、特にやっぱりゲルニカが凄かった。ゲルニカはスペイン戦争を描いたが、グレイの色彩で描かれる画面は圧倒的な迫力で迫ってくる。面白いというレベルを超える。かつ改めて西洋絵画は数多くの死体と戦争を描き続けてきたかを思う。
加えて、初めて見たがブニュエルの無声映画がきわめて面白かった。僕の最もフェイバリットな映画監督はブニュエルなんだが、ブニュエルは初期からやっぱり凄いのである。アンダルシアの犬は誰もが知るけれど、この映画は、勝るとも劣らない。タイトルは何だったかな?

これらを見た後、フラメンコでも見に行こうと思ったが、疲れ切ってダウン。

さて、翌日5日。5日はゆっくりしていようかと思ったが、ふらふらと吸い寄せられるようにトレドの町に行った。トレドは見なければならない、と言う人が多いので行ってきた。まあ、確かにヨーロッパの古都であり、きれいな町ではある。ギリシア人、エルグレコが離れなかった町としても有名。キリスト教とユダヤ教とイスラム教が混在化していると言われている。けれど、多く世界を歩いていると、こういう町は興味深いが、それ以上でも以下でもない。トレドの素晴らしさを誰もが言う割にこの程度か、という感じが強い。それは観光地化していく中で、町から生活の匂いが薄れ、逆に詰まらなくしていることもある。が、ヨーロッパ、アメリカ、中南米に広がるキリスト文化をいろいろと見てくると、所詮、キリスト教文化であるから、飽きが来やすい。ここに中南米のように土着宗教が混じりし出すとまた、趣が大きく変わるのだが……。ヨーロッパの限界はキリストにあり、そのキリストという範囲の中で蠢いてきた人たちがヨーロピアンで、キリストというボーダーを意識しつつアートは生み出され、かつアート評価がなされてきた。こう考えれば、他の文化圏のアートなどはヨーロッパ側の視点から見れば、本道でなくなるのは当然だろう。だから、エギゾティックな異端であればあるほど良くなる。そして、それは表面的な異端としての相貌を持っていた方がずっといい。ヨーロッパの内部に踏み込めるはずもなく、踏み込んでもらっては困るのがヨーロッパ側の視点だろう。
それを考えるなら、ヨーロッパに認められたと言って喜んでいるアーティストは自戒せねばならない。私もかなりヨーロッパで公演はやってきている。しかし、どんなに評価が良くても、その評価には搾取の視点が入っているように思ってきた。

それとは別に、昼飯を食いに入ったレストランは最高だった。昼飯を食うにしてはやたらと高かったけれど、美味けりゃいいんである。味は値段を凌駕するのだ。

さて、マドリッドに戻り、再びソフィア美術館へ。4階に行く。さらに新しい時代の展示。真っ先に入った部屋では第二次世界大戦時の死体の写真と映像が次々と。いくつもの頭部がバケツにゴロゴロと入っている写真。首のない死体がズラリと並んだ写真。ブルドーザーで死体を次々と穴に落としていく映像。目玉が抉られた写真やら映像やら、隠し立てせずに展示する凄み。まさに二十世紀とは最も多くの死体を生み出した世紀でもあった。そして人類が人類としての生存のパラドックスを生み出した世紀でもある。
新しい技術としての映像。死。苦悩。文明とはなにかを問い掛ける
次第に絵画、彫刻を超えて、新たなアートが生み出されていった。一方、舞台はどうか。舞台も同じだった。が、しかし、身体という足かせが重く、足かせに縛られて、身体は逆に小さくなってきつつあるように感じる。

0 件のコメント:

コメントを投稿